昨日は、まずIKEAにまな板を買いに行った。アカシア材のかわいい品を買った。水筒を忘れたため、プラントベースのソフトを一階の食堂で二回食した。その足で裏手にあるスーパーに行き、ごま油と豆大福を買った。地下鉄を使い、降り先でフライ豆を五袋買った。歩いて帰宅し、まな板を食洗機で洗ってみたら、ややざらついたがいける感じだった。
書斎で一人佇んでいると、なにもかもをありがたいと思うようになった。ラジオで面白い人の話を聞けることや、フライ豆を丸一袋食べられること、音楽の演奏を聴けることなどが、多くの人の努力や文化の上に成り立っていることだとより深く理解した。街を歩けるのも、物を買えるのも、雨を窓から見守れるのも、多くの労働によって可能になったことである。多くの労働は見えるものだ。それに、今働いている姿から類推もできる。
社会は財の分配で、知識を持つ人と持たざる人との格差があり、生まれの遺伝差もある。それでも、日々平穏に職場で労働できており、退勤したら家庭に帰って眠れる現実が、奇跡的に成り立っている事態だと思った。制度のうまくできていること!人間の忘れやすさ、偏りやすさ、熱の入れやすさによって尖った労働だけでない、目立つことだけが労働ではない。メディアばかり見ていると忘れてしまうが。
二十時台には就寝していた。最近は歩く速さもゆっくりで、しかしながら二万五千から三万歩歩いており、心身はすっかり落ち着いた。それから、寝る前に蜂蜜飴と塩飴を一つずつ舐めるのだが、よく眠れるという。民間療法だが、これらを舐めた日はすぐに眠れる上、明け方五時まで目覚めない。朝起きる時刻も五時台で安定して推移している。規則正しい生活の中で、頭の中が解れてきている。