二〇二五年六月十六日号

昨日は礼拝に二度行った。午前の主日礼拝と、別教会の夕拝である。聖書の話を聞きたくて、所属教会に関わらず聞きに行った。母教団にはあまり良いこととは思わないが、一人の牧師の説教では理解が偏る気がして、できるだけ多くの説教者の話を聞きたいと思ってしまう。私の読書が足りていないことはよくわかっているが、読んでみても直らない。

夕拝に行く間、歩いていて思ったのは、人間は生活で棲み分けた方が幸せではないか、ということだった。あまり一元的に一括した政策を作らずに、何かで分けたほうが暮らしやすく、街にもそれぞれの層による生活環を同居させた方が、色々な人生が選べたり切り替えやすくなって暮らしやすいと思った。この街はその多層性が確保されている。

富裕な人には高級レストランやワイナリーが、酒好きには夜の酒場が、麺好きにはラーメンの天国が、低収入者や節約家には安価で滋養のある食材店が、この街にはあり、棲み分けている。生活は意外と大きく切り替えられる。車を持たない、持ちたくない、という人も暮らしやすい都市圏。お金儲けしたい人も、経済規模を小さく収めたい人もいる。

区別は自然とつく。それで差別しようと思うのなら、実は気になるのではないか。貧しい人を差別するのは、本当は自分も貧しい暮らしを送ってみたいからなのでは。表現の表出の問題。そんなことを思った。讒言するなら面と向かって話してみればいいのに。私は午前と晩に、一人ずつ声をかけた。通行人だったが、まっすぐ歩けない心配な人だった。行き先に到着できたかどうか、今も少し心配している。いつかのためのお互い様、っていい言葉だ。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: