二〇二五年六月七日号

昨日は朝から出て、横浜駅まで歩き、東京駅まで乗り、降りて上野まで歩いた。科博まで古代DNA展を見に行ったのだ。上野公園の往来はやはりゆったりしており、外国人は多かった。展示会入ってすぐ、世界の人類移動地図が掲載され、コンゴ地方で発生したと考えられている人類が、世界各地に移動した歴史が一枚の矢印付き地図になっていた。その後、日本の人類の話で、琉球からアイヌまで、標準顔も模造してあったし、犬猫の変化も展示されていた。どうやら古代の日本人は、ある階層は一夫多妻制で、ある階層とは高いか低いか不明だそうだが、離婚も同居も多かったらしい。

その特別展だけ見て、上野公園を遊歩した。高校三年の時に、大道芸人に背中から声をかけられた時に建築水彩で描いていた文化会館の位置に立ち、スマホで写真を撮った。昔より樹木が成長していたが、まだそこに風景があった。池之端の玉三郎と名乗っていた方だったが、おそらく亡くなっているのではないかと思われるべくもなく、そこに居なかった。彼の背中を見て、私は自由を知り、道化に走った二十年間だった。その後、湯島大聖堂と東京大神宮を歩いて訪問し、それぞれ、楷の木と涼やかな風鈴席を一枚ずつ撮影した。

聖橋を渡ってからは初めての訪問だった。市ヶ谷は大変知的で文化的な街で、飯田橋は若く聳り立つ街だった。神楽坂の眼鏡屋に寄り、お店の主人に十本超のサンプルを出してもらい、番号を控えた。私の欲しいものができた。昨年の十日町紬に続き、生涯で二つ目の品だ。まとまったお金が入る九月に再訪問する。いい買い物になる。その後は赤坂、三田、品川と歩き、蕎麦屋には流石に寄った。二人半前のもりそばを平らげ、蕎麦湯を二口、薬味は辣油に柚粉に七味に米酢、混ぜて二口三口の後、つゆに浸すのはいつもの食べ方。食したので川崎まで歩けたが、時間が時間なので品川駅からおとなしく電車に乗った。

帰宅して郵便物の処理などしていると、当日の唯一用件である妻のクール便が届いたので受け取った。箱から出して冷凍庫にしまい、箱は畳んで瓶缶と一緒にマンションの回収場へ捨てに行った。少し体は熱っていたが、悠々三万五千歩放徒した。内心、東海道を歩くつもりだったが、小田原までを目標にした。藤沢、茅ヶ崎、平塚、と徐々に伸ばし、できれば熱海まで歩きたい。豆や種を中心に最近は食べており、足はとても強くなった。生涯で今が一番強い。圧倒的に疲れなくなったが、靴の方が負けたそうで、右足の親指に靴擦れの水疱ができていた。すぐに良くなるだけである。


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