昨日からやはり飼い猫の様子はあまり良くない。毛布が濡れに濡れ、脱水症状を呈していて、さすがに水を与え、それでもままならなかったので、経口補水液をドラストまで走って買ってきて匙で与えたら何度か飲んだ。ただ、飲まない意思が猫本人にあるらしく、先が短いと知ってのことらしい。口を開け舌先を浸したのは三度だけだった。妻が身体をよく拭いてくれた。
午前にNPOの総会に参加、最期の四十日を飲まず食わずで逝った百歳の話を聞く。看取りとはそういうものなのだった。知らなんだ。猫は人ではないけれど、人とそう大きくは異ならない、意識はあるし、細胞だって組成がそう変わるわけでもあるまい。一昨日の妻の判断のように、ごはんはともかく、水も与えないようでは浮かばれないと思っていたが、妻は柔軟にも考えを翻してくれたのは良かった。
夕方、午前の用事のため行けなかった礼拝に参加。普段とは別の教会。着物の話で盛り上がる。趣味とはいえ買いすぎてしまう人がおり、検索と整理の数学の話が役に立つ様子だった。実は昨年お世話になった教会で、私の悔い改めと聖書理解に大いに役立った牧師が、抗がん剤投与中で、美しかった白い頭髪が薄くなっているのにはすぐに気づいた。痛みはまだないらしいし、大病は生涯で初だという。
副牧師による説教では、主イエスキリストの復活は、霊だけでなく体も伴っていたという内容。つまり、十字架に磔になった後も、一度何かが死んでから、よみがえって、墓穴から出ていったと。墓穴の石を退けるには、物理的な梃子の考えが要るとしても、その後数十年(六〜七十年?)生きたのだから、そう簡単には死なないのだ。人は何によって死ぬのだろう。礼拝後、牧師に、もし癌が治ったら何歳まで生きるのでしょうか、百歳超えますよね。と話すと明朗に笑ってくださった。おそらく、笑うことで免疫が強くなれば、きっと牧師の癌は治ってしまうのだろう。