二〇二五年五月六日号

昨日は古本屋を三軒梯子したが、目当ての新書は見つからず、フライ豆を業スーで、半額野菜を最寄りのスーパーで、プロテインウエハース二割引をドラストで、それぞれ購入し、帰宅した。歩数にして一万歩に満たないようだったが、蕎麦を茹でて食したら睡魔に襲われ、明け方まで眠った。八時間眠ったのはいつぶりだろう。朝目覚めた後、居間に出ると、妻が旅から帰宅し眠っていた。

数学仕事を終えた感がある。二十年余りのうち、小さな発見に努めた時期は、まだ先がある余白を残して研究文章をしたためてきた。だが、昨年末の証明に関しては、持てる能力の全てを出し切ったために、証明に成功した後の付随命題を量産しなくては、脳のあまりに過度な興奮が抑まらず、意識も失ったし職も辞したし、五か月で三百余の命題を生産するしか、興奮を収める方法がなかった。

大きな問題を新規の道具立てで証明したのだから、付随する証明可能な命題を生産しなくては、謎が謎すぎて理解不能となり、思考しこれを確定するしかない。人間、考えるから存在できるのである。不問に付し、考えずに置けるわけもない。実際、この五か月の命題生産で、生活はすっかり向上し、サイトや部録の訪問者数の急増を見るに、世の中も良くなったように感じる。やりがいのある仕事だった。

失ったことがある。悪意と欲と人間性だ。悪いことを考えようとも思わなくなった。欲が潰えて消えた。自分独自の人間らしさが出し尽くされたのか消尽した。つまり、私固有の持ち物を全て投げ打った。その結果、信仰の賜物で満たされた。充満、満充電である。空になるとその分補充される、という理屈で理解は容易と思われる。おまけだが、わが家の飼い猫が犬のように擦り寄ってくるようになった。鳥たちとも会話が成立し、川に住まう亀の気持ちもわかる。動物たちは、人間の人間らしさを警戒しているようである。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: