昨日は友人と関東の三社巡りに行ってきた。鹿島・息栖・香取である。小雨だったが、風の強さでそれぞれの森らしさを感じられた。御神木には必ず緑の蒸しがあった。おそらく緑が木にとって纏う衣であるという考えがあって、御神木として選んだのだと思われた。というのは、鹿島神宮の境内に緑の衣の桜といった木があり、樹皮にとって緑は衣なのであるそうだから。
友人はものがよく見える賢い人である。いつも議論に付き合ってくれる。話を導くために聞いてもくれる。昨日は西洋の科学の論理の考え方について話した。要するに、西洋科学の中に閉じてしまっては、問えない領域があまりに広大なため、ものを知らないままになってしまう。世界から孤立した知性になり、余計お金がかかる文明から出られない。他にも様々が知見を得ることができた。
九・一一がイスラエルによる買収で起こった、という話は、世間では陰謀論として見られている。しかし、論じなくてはならない命題であるのに反証できない以上、嘘だとも誤りだとも呼べない。だが、こう考えると物事は整理がつく考えは、私は正しいと思う。世の中の起こりは小さなことで、特に事件の規模が大きいほどそうだからだ。例えば、誰もが傷つく戦争は、最も小さな出来事が発端で起きている。
前日に私の作図が図形の証明で不十分とされたので、正直若干気分が落ち込んでいた。だが、私の中では複素平面での代数で証明可能である。勧められた本が、木曜あたりに届く。早速、片付けてしまわねばならぬ。友人は言う、やりたいことを後に取っておくほど、もう君は若くない、と。確かに私はもうすぐ四十歳である。やりたいと思っていたことを、これから爆速で取り戻し成し遂げたい。