昨日のこと。雨模様の霧雨の中、朝からドンキへ。ふと、十代の頃の盗癖について思いを致した。汝、盗んではならない。問いがいくつも浮かび、回答をメモして迂路々々していると、開店時刻となったので、作業中の清掃を跨いで入店した。なにも食指がわかない。盗んだ者は弁償を数倍以上行うことになる、と聖書にあり、罪を赦してもらおうと思い祈ったのだが、何をなぜ悔い改めるか判然としなかった。私には所有の概念が消えている。私の持ち物って何なのか、つまり、財産の所有はなぜ守られねばならないのか。
一時間余り考え歩いた結論はこうだ:天に積んだ秩序を壊す権限はない。各人が積んだ宝を、よそ人が壊し奪うことは、やはりよろしくない。たとえそれがパチンコ屋の建物であろうと、宝は宝だ。合点したので、店内を楽しませてくれた謝礼に、入口付近のワゴンに入っていた米粉クッキーを一箱買い求め、去り、そのままバスに乗り、ハローワークの食堂で食し、目的の就労相談も受けていただいた。社会貢献に関する相談だった。消費すなわちお金を払って物財を買う以外の社会貢献のありようはあるか、という問いに対し、もちろんある、との回答が三者三様で返ってきたので確信を得た。
私はものを買わない。もうたんまりとある。ほぼ安物で、資産残高も心もとない。しかし、良い品であり、私にはちょうどよくぴったりで、使っていてストレスがなく、気楽な物財ばかりだ。服や本やIKEAで八割、と語る動画を書斎で作っていると、どうやら私はまた救われたようだ。すなわち、消費しなくてはならない、との強迫観念から解放され、欲が消え潰えたのだ。おそらく、食材を除いては、今後ろくに個人消費をしないだろう。友人知人も少ないので、交際上の消費額も低く収まる。どうやら、より収入の低い仕事で十分回る生活が成り立ちそうである。
今日は打って変わって晴れた。また散歩に出かける。約束どおり理容師さんに不要な日用品を渡しに行った後、古本屋で現代貨幣理論の本を求めに行く。多分、ゴールデンウィーク割引で二割安く買える。そうでなければ別に要らない。そのまま帰宅するか、業務スーパーでフライ豆税込百三十円を五、六袋買い溜めするのかもしれない。昨日は百円も使わなかったのだから。いまこれを書斎の椅子の膝上で書いている。朝の六時半を回りそう。窓の外で高速道路の車が糾音を響かせている。タイヤとアスファルトはこんなにも摩擦するのに、家計の融通はこんなにも滑らかなのだ。