二〇二五年四月三十日号

昨日は、歌のレッスンでお世話になっているピアニストのコンサートに参加した。現地に着いて滞納していた月謝を支払うと、私も急遽発表できることになった。一分あまり賛美歌を歌った。全員で二十数名の小さな演奏会だったが、気持ちのこもった丁寧な会で、歌を愛する人はみな素敵である。私は定年後の趣味にしたいと考えていたが、歌い終えた後の反省が重いので、やはり不惑の代に練習を再開したいと思うことにした。自分など儘ならない、と謙虚になれる機会が、日常に余りにもないからだ。

学費を目的とした貯蓄が、底をついている。来年度の大学院遊学は、おそらく実現しない。多分、研究生になる費用は準備できる。しかし、それを超える資産はあと二年は働かねば貯まりようもない情勢だ。理由は簡単で、私が活動で稼ごうとしていないからである。一銭も入らない。働いていると云えるためには、報酬をいただいておらねばならない。人様からお金をいただくのだから、責任が発生する。私のできる仕事といえば、ウェブサイトを作ることか、活字系の出版である。ただし、後者はいままでお金になった経験がない。

お金を払う価値とは何か、と考えることがよくある。どうしたらお金を払ってもらえるのだろうか?一応、ウェブサイトを作って維持する仕事は経験があるので、数万から十数万円の契約を複数とる名実があると言え、実際に年内にとるつもりだ。再就職を果たしたら、登記もしようと思う。多くは稼げないし、高く稼ぐつもりはないのだが、得意なことや疲れもしないことで、人さまには難しく厄介なことなら、お金をいただいても申し訳なくならない。つまり、お金をいただくことに私は引け目がある。

お得な買い物をすると申し訳なくなる。こんなに安くてよいのか、と。これは私を売る時も同様である。こんなにいただいてよいのか、と。私には商才がない。商魂がないからである。過去の実績によれば、私のウェブ仕事の品質は評価が高く、能力に対する評価も高い。私も自任するようになれた。自信をもってウェブサイト仕事を取っていきたい。再就職先では、ウェブサイト制作や開発を教える要素があるところにしたい。指導が趣味用でも構わないと思う。同様に、私も歌のレッスンに月謝を支払う。喜んで支払う。そういうことだと思う。自分の至らなさを痛感できる趣味は有難い。


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