二〇二五年六月二十六日号

昨日は仕事した。実に三ヶ月ぶりのウェブ制作業だった。ついこの前まで、私はものの形のデザインの世界で生きていた。ここでいう世界とは環世界のことで、物事を全て形でみていた。どんなに平和で単純な世界だったろう。この三ヶ月、人間の面倒臭い面、かつ死活的に重要な部分について、思考を重ねておいたおかげで、仕事はあっという間に終えられた。理解が困難でなくなったからだ。二日後に確認の連絡が来るという。

仕事終わりに、フクシマ学の本を読み、なんと面倒くさい界隈を解説してくださるのだろうかと感嘆した。こんな縄の捩れた領域を現実性でもって思考できる人がいるのだ!と。言論を説明によって正すことの眩惑を思う。私にはとても無理だ。さてしかし、私はここで書くように何かを残そうとしている。何か本を出版する野心がある。だが、私は泥臭いことを対応できない。こればかりは確かなことはない。

人文学を、私と本との対話だとしか思っていなかった。今は、現実と活動的に交感する学問に変貌していたことを知った。だから庭の話を著したあの人物はあのようなことを考え、あのような圧のある早口で述べ立てるのだ。火に油を注ぐ界隈、火傷したくなかったら近づかない方が良い。ただし、文学界隈で静かなところをいかに作るかという命題は考える価値がある。お店を開く案なのだから、自然な発想だ。

私はウェブサイトを作っていて、以前上司が、ウェブサイトはお店屋さんなのよ、と教えてくださったことを思い出した。プラットフォームに立てなければ、ウェブサイトはドメインに建てるお店屋さんである。ウェブ制作とは、店頭にお店の情報を並べる仕事なのだ。私は捉え直した。面倒な界隈の事情を知るほど、形の知識が活きるのだと。仕事から離れた三ヶ月の間も知見を溜めていたようで、自分を褒めたくなった。考えようで、困難は経験になり、道は開くようだ。


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