昨日は教会で礼拝。愛餐会があり、一品ずつ持ち寄るのだが、私は拵えた玉葱味噌を持参し、好評を得た。中では蕗の煮物が美味しかった。皮筋を取った上で出汁で煮ただけと仰っていた。食事中、男性教会員に牧師が突慳貪な構えで話していたが、そのフレームでなくても、と思う、いつもそうなのだけど。牙城のようなものを崩さなくては、という使命感のようなものがあるのかもしれない。
帰路、近所の川縁で人集りができていた。川面を覗くと大きい鴨が悠然と渡っていて、向かいの家の三階から犬が元気よく猛り、川縁を散歩していた子犬が応じ、十五分程度続いたものだから、通りすがりの方に、どうしたんですか、と訊かれたので「川面に鴨がいるのと、これとは別に、あの三階の犬とそこの散歩の犬が鳴き合っているのが、平和だと思ってね」と説明したらにこっと笑ってくれた。最近特に話しかけられるようになった。
帰宅してアルバイトに応募した。アプリから三件。日給一万円を超える案件。失業の日当が六千円あまりだから、これを超えなくては意味がないというもの。三日受かっても二万円を超えないが、有難味は大きい。二万って大きなお金なのだと再認した。ただ、三日でそのくらい稼げてしまうのも簡単な気がする。すなわち、働くのが嫌でなければ、生活は簡単であり、贅沢しなければ、蓄財も難しくない、と導ける。
先週自分で作った動画を聴いていると、書斎についているLEDが、高校一年の時の私の視界記憶と地続きになった。あの頃の私と今の私が完全に同一人物になった。今までは乖離しすぎていたきらいがあった。これからは、私は私。発見に興奮する脳を持つ私ではない。もう発見なんてしたくない。創造的な意見を求められたら、六三〇問の問題と五十本の動画から回答を捏ねくり出して過ごすのだ、それで数十年分が十分だからだ。