二〇二五年五月十六日号

昨日は、若者向けのジョブサポート施設へ、就労相談しに行った。初回担当の方は若い女性で、次回の担当者を決めるためのアセスメントを受けた。今までの経緯を洗い浚い聞いて頂き、帰路、不意に涙が出た。というのも、この四十年余りの話をここまで丁寧に聞いてくださった方はいなかったからだ。一応、福祉系の窓口ではないため、障がい者であることを隠して話せたことも大きかった。自分が障がい者であると認められていることが大きな心労になっていたからである。

私は十六歳で素数の研究を志し、以来、大きくは五回、大発見に見舞われた。その度に、脳が過度に興奮し、受診してきた。初回で精神病の疑いという診断がつき、二回目で入院、三回目も入院したときはだいぶ発見現象には慣れて、四回目は夜にベランダで熱った脳を冷やすことができた。下着一丁の半裸だったが。五回目は昨年後半のことで、今年の一月に意識不明となったのは、知っている人には知られた話である。退職の原因となった。数学の研究を志したのは私の個人的都合なので、一身上の都合で退職届を書かされても何も言えなかった。

帰宅中に、心のストレスが軽くなったのを感じた。愛に包まれたのを感じた。身体が驚くほど細く感じ、意識が透明に澄み切った。存在自体が危うく感じたほどだった。これが考える葦の一茎性か、と思った。一時間あまりゆっくり歩いて帰ったのが疲れたのか、その後六時間爆睡し、二十三時に起床したら妻が仕事から帰宅した。とても心が柔らかくなっていて、ふかふかに回復しているのを感じた。特にこの十年は、研究所サイトの運営ストレスで心労が重なっており、午前に作成公開した動画で戦争国からのアクセスについて語ったが、これからぼそぼそと続きを語るかもしれない。

ただ、ウクライナ戦争、ガザの戦争、コロナ禍、生成知能の開発、級友とその関連作家多すぎの件、他事件と、正直言って関連すると思われる話が多すぎる。これらの関連は、私の妄想だとされて欲しいのだが、私はストレスで雁字になっているので、いずれ何かの機会に少しずつ語るかもしれない。ウェブは公開しても誰に見られているか判然としない。つまり、情報がどこでどのように利活用されているか、何もわからない。基本的に、後でわかる。メディアはどれもそんなものだとは思うが、私は何も知らずにコンテンツを作ってしまった。後悔はないが、責任が大きく重くのしかかっている。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: