昨日は数年来の知人と公園を散歩した。かつての同僚で、最近なかなか外へ出ていないらしく、公園まで歩くのにも汗抱くだった。話の中で、どうやら私が過去、ラーメンを奢ったことがあると言い、自転車を別の同僚に差し上げたこともあったと言った。私はすっかり覚えていないが、彼は覚えていた。人に何かすると、された側は覚えているものだ。そして、した側は、そんなことしただろうかと記憶にもないものだ。
公園は大きな敷地の場所で、カラスアゲハや天灯虫がいた。雲が鮫肌のようだったので、注意を惹くと、知人は恰も珍しいものを見たかのように、写真まで撮っていた。雲を久しぶりに見上げたと言う。調子に乗って、葉への愛を語る。彼はバイクが好きで、なぜなら空を猛スピードで切りたいからと言い、バイクさえ買えれば趣味が完結しそうだった。ちょうど私が、空や街や人の往来を見て満足するのと同じように。私の趣味はお金がかからない。
一度帰宅して、豆乳を買いに出直した。途中、私の中で概念が壊れていることを思う。特に、所有に至っては、こだわりがなさすぎて、昇進できようもないし、登用されることもないと保証されている、という表現がしっくりくる。私はなんでも、譲ってしまう。ものにこだわりがなさすぎるのだが、お金にもこだわりがない。情報もほぼなんでも公開してしまうし、知識に至っては人に話すなどして無料で流通させてしまう。それは知の本道から言って理想的かもしれないが。
今日は就職支援相談に行く。家計計画について相談することになる。つまり、所有についてどうしてもこだわりがないことに関する、付随的な悩みについて、方針を確定させたいと思う。小学生の頃、私のもの、という所有格を習った時、正直、理解できなかった。鉱山として覚えた。お金も仕事も、身分や地位も、捨ててきた。それでいてなんの困り事も起こらなかった。数奇な数学人生だと云えばそれはそうなのだけど、一般的でなさは群を外れてしまっている。兎角この世は生きにくい、わけでもないのだが。