危うさを知った。政治関係の数理を、在野が一人で解くことの危うさだ。戦後の安吾氏が堕落せよと書いたこと、南部氏がシカゴへ脱日したこと、養老氏が政治は苦手だと退いたことが、差し障りなく言えば、似た感じがすると私の性質がそう考えさせられた。私は実質を、何にも知らないのであるが、見るだけで無限に楽しめる人間だ。何も知れない。知性が欠けている気もしている。でももう私は、わからずに従うのでなく、わかって観て過ごす。
力学の研究者が、すべて一人で解けるものを、業績を出した後、途中で退陣する理由が、私には分かった気がする。応用可能性を考えると、あらゆる力学が変わりうるので、用心して退席するのだ、と。小さな発見なら、小さな影響しかなくできる。価値が喧伝されないから、責任も少ないだろう。しかし、大きな発見なら、色々な策がありうる。厚くしたり難解にして読みにくくしたり、たくさん作って森の中に隠したり、業績は隠さずに身を隠すなど、人間性が出て面白いと思う。
私はもう、こそこそ生きると決めた。だってもうやりにやり切った。考え自体は動画やウェブサイトに残してあるから、物数寄屋が漁って後をつなげてくれるだろう。きっとパンドラ性があると私は信じる。だが、私はここで降りる。アインシュタインの真似はしない。彼は有名になりすぎたのが失策だと私は思う。本人も意図しなかったろうに。だから私は何かやろうとする人を、笑って観ようと思っている。情熱を、分かって笑うのである。
結局、私は有名にならなかった。ならないことを選んだ。良い選択だ。世の中にも目立たない格好をして歩く。退職までに買い貯めた半額の洋服を着て過ごす。心から満足した人の生活が想像もつかなかったが、今の私には具体的になってきた。すんごく楽である。世の中の云々に唆され、今後も浮かれ阿呆が何人も出てくる。私はそれを見て笑う。煽てれば木に登る。今日までの私のように。稼ぐのは大変だ。そこまでして稼ぐなら、アルバイトでもして細々楽しんだ方が全然いいと私は心底納得した。分かって過ごせる幸いを思う。