所有とは何か?所有するとは、いな、所有はいかなる目的のためであるべきか。結局、自分の生活のために使うのであるならば、投資にしたって問題ないではないか?所有したものから財なり価値なりを作り出してなにも問題ないのではないか。情報通信社会であるし、作る技術もあるのが多数で、情報界隈は作り方であふれている。購入費用とは、半永久的に保証された価値生産性能も含まった額なのではないのか。
なにかと言えば、貨幣の形態で財は持つものだった。しかし、欲する財はいつでも買えるとも限らない。売り切れ、生産終了、価格高騰。買いたくても買えないとき、買っておいた者だけが笑うのである。ならば、買おうと思ったときに、買うことにすればよいのである。財を貨幣で持たなくたって良いのだから。私はすでに、洗剤は重曹やセスキくらいしかもう生涯にわたって買わないし、洋服は五十年をいまの持ち物で回す決意を持っている。
稼ぎたければ稼げば良い、という議論に対し、私もちょっとした行動を図っている。すなわち、特許を一件出してみようとしている。申請から維持に百万円かかるので、博士入学費用との兼ね合いなどで遅れることもあろうが、私の帳面には特許のアイデアや実用新案が3件はある。一応、私は大学で知的財産権の講義を修めた人間だし、特許庁に入庁応募した人間であるから、革命的な反逆者では毛頭ない。ただ、学生当時から特許の思想には疑問点が多く、利益の偏りを生んでいる元凶の一つだとの認識はある。
アイデアで経済は回って久しい。アイデアは一人のものでない。アイフォンのコンセプトは誰だって思いつく。それを実際に製造し販売した人こそが儲けるのであって、考えただけでは学術的称賛価値しか持たない。これは私は二十年余り数学や計算手順界隈の研究を続けてきた正直な感想であり、本も研究環境も自腹で営んできたつけが今来ている。すなわち、アイデアレベルでは経済価値の独占を主張できないべきであり、アイデアの責任は製造運営者に帰属し、発案者には存しない、ということだ。なぜなら、発案しただけで責任を負わされたら、誰も発案することさえしないだろうから。