昨日も礼拝へ行き、昼食会が無かったので、伊勢佐木長者町へ歩いて行った。フレッシュピーナッツは三百円台でもはや贅沢品になったので、食塩と長葱を買って後にし、隣の店舗ではフライ豆が依然として入荷がなかった。中国産の蚕豆だが、VB群など滋養に富むのに一袋百二十円とは格安なので、品が切れるのも理が立つ。私はといえば最近はひよこ豆に嵌っている。皮と実の噛み応えが違って楽しめる。
帰り道で、泣き止まない赤ちゃんが後ろから聞こえたので、通過する姿を見届けた。安い乳母車に赤ちゃんが入って泣いていた。理由はすぐ幾つかわかった。がたがたと振動が体全体を襲っているのに、母は一向に気づくことがない。ジーンズにお洒落なシャツに麦藁帽の若い母だが、赤ん坊の扱いは物体のようであった。悪い人には見えないが、形だけ揃えて済ませる人に見えた。赤ん坊は振動で頭の不快感いっぱいだよ。
帰宅し、チ豆のラジオを聴きながらすっかり眠り、夕方に起き、郵便受けに注文した本が届いていた。夜になって本を開き、夜更けに読み解き、複素数を使って計算した。やはり作図は不可能であるとの結果が得られたので、すぐさま部録を更新し、誤報を知らせた。チ豆は幾つかあるが、この作図問題に関しては無理である。ただし証明には、円周率が超越数であることを使わない証明を載せておいた。私の矜持である。過剰だけど。
翌る日、日経新聞の報道で、発明する生成知能が二、三年後に上市されるとの投稿が流れてきた。一例として、らせん光のアンテナ管を立体造形装置で出力するには、曲線の出力を滑らかにする必要があるが、金属で行うのなら、造形時間をうまく使って、温度を調節しつつ水冷するなどすれば実現する話である。つまり、発明も模型も製造も生成知能に任せて仕舞えば、人は皆、人間らしい仕事に専念でき、過労死や名誉傲慢も防げると思うに任せた。